ニューカレドニア観光局

先史時代

ニューカレドニアは、かつてゴンドアナ大陸の一部だったといわれています。7千万年ほど前にオーストラリアから分かれ、その後も地殻変動の影響を受け続けたと思われます。氷河期以前は大陸と地続きで、氷河期が終わるとともに海水面が上昇し、やがて海に孤立したグランドテール島が誕生したという説もあります。考古学的にもっとも古い人類の痕跡は、土塁、ペトログリフ(岩石に刻まれた模様)、ラピタ式土器(紀元前2000年)などに見られます。

パイータ村の川のほとりにみつけたペトログリフ

紀元前5千年以上前に、民族が移り住んでいたことの証とされるペトログリフ(岩石彫刻の文様)も、何のためにつくられたものなのか、まったく分かっていません。古代人の文字か?象徴か?それともいたずらがきか?とにかく、現在のメラネシア人たちとは違った民族だったようです。

植民地化以前

現在のメラネシア系の人々は、東南アジア方面から帆付きカヌー(ピローグ)に乗って島伝いに移住してきたようです。各部落ごとに自足自給経済が営まれ、やがて西方からポリネシア人も移住しました。そのため、言語も多様で少なくとも27の方言があり、地域によって別の国の言葉のように異なります。ただし、カーズ(植物の葉で葺いた屋根の家)に生活し、ヤムイモ、タロイモを主食とする点では共通しています。

西洋人による発見

1774年、イギリス人のクックが西洋人として初めてニューカレドニアを発見します。そもそもニューカレドニアという名前は、クックがグランドテール島の山並みを見て、イギリス北部のスコットランド地方の風景に似ているという印象を持ったことに由来しています。スコットランドのローマ時代の旧名はカレドニアでした。イル・デ・パン(松の島)もクックが残した名前です。次に訪れたのがルイ十六世の命を受けたフランス人、ラ・ペルーズ。そして、多くのカトリック宣教師がニューカレドニアを訪れました。1853年、ナポレオンⅢ世によってニューカレドニアはフランス領であると宣言され、同年9月24日にフェヴリエ・デ・ポワント海軍大将が本島北部のバラードに3色旗を立てます。このことを記念して、現在9月24日はニューカレドニアのナショナル・ディになっています。

政治犯の流刑地

フランスの植民地になったニューカレドニアには、本国の政治犯流刑者が多数送られてきました。その頃、フランスからは4ヶ月もかかる船旅でようやくたどり着くことができたので、ニューカレドニアは世界の果てと思われたことでしょう。 1871年、パリコミューンの内乱が勃発した時は、およそ4千人が運ばれ、ほとんどがイル・デ・パンに留めおかれました。こうして、19世紀後半に、のべ3万人ほどの人が、国外追放および流刑者としてニューカレドニアに送還されたということです。1897年にこの処罰制度は廃止され、以後はありません。

日系移民

世界のニッケル資源の4分の1を埋蔵するといわれるニューカレドニアは、19世末から世界的なニッケル需要とともに大きく発展しました。ニッケル鉱石を掘り出すため、国内労働者だけでは手がたりなくなったときにやってきたのは、主に九州・沖縄方面から移住した日系移民たちです。本島東海岸の町チオには、当時住民1800人のうち日本人がなんと1300人ほどいたそうです。第2次世界大戦が起こるまでの間に、5581名の日本人男性がニッケル鉱山で働くために、ニューカレドニアに渡ったそうです(『ニューカレドニア島の日本人』より)。彼らは主に熊本県や沖縄県の出身者で、中には現地の女性と結婚して現地社会に定着した人もいました。しかし、日本がアメリカの真珠湾を攻撃してから状況が一変します。フランスおよびニューカレドニアは連合国側だったため、日本国籍の人々は敵国人として刑務所に収容され、オーストラリアのキャンプを経由して、戦後に日本へ強制送還されました。彼らが所有していた財産のほとんどが没収されたほか、家族とも生き別れになったそうです。今日、ニューカレドニア人で日本人の苗字を持っている人は珍しくなく、そんな人々のほとんどがこのような日系移民労働者の子孫です。

フランス海外領土

1946年、ニューカレドニアは植民地的な地位から、フランス海外領土として認められます。その結果、人種に関係なく住民は、本国と同等のフランス国籍を持つことになりました。現在のニューカレドニアは、ニッケル鉱業と観光業、南太平洋という特殊な土地柄に生かして、フランス共和国の一部でありながら、同時に特定の領域に関しては自治権を保持する新たな地位へと発展しています。